Kim & Jessie & ......

見つけてもそっとしておいてください……。

のり

いつも鞄にホッチキスを入れている。

提出するレポートや発表のレジュメを印刷した時、意外と使う。

準備の良い人間を目指しているので、ちなみに絆創膏も定期入れに挟んである。

 

本当は、こっそり妄想をする。

どんな相手でもいいのだが、たとえば靴擦れが辛そうなスーツを着た女の子とか、教室に慌てて入ってきてプリントをばさっと床に落とした教授とか。

そんな、準備の苦手な人たちへ歩み寄り、「どうぞ」なんて言いながら渡す。

ホッチキス、絆創膏、小さいハサミ、割り箸、クリップ、全部そんな妄想の入り口のために、鞄に入れているのだ。

 

なので、準備の良い人間でありたいという小さな理想は、密かに自己肯定に繋がっていたりする。

実際、それらのものが活躍する場面は極端に少ないが、出くわした時にはむしろ贈り物のような気がしてしまうのだ。

 

他人の不注意に出くわすことが贈り物? 

相変わらず、随分遠回りなやり方だとは思う。

 

しかしこのやり方には、おそらく私が例外的なのだが、大きな欠陥がある。

それは、自分が「うっかり」をやらかした時に、小石のように少しずつポロポロと集まっていた自己肯定が、パーーーんと吹き飛んでしまうことだ。

うっかりは突然やってくる。

 

 

その日、サークルを引退する先輩宛の色紙を、大学で作っていた。

色紙を回し個人が直接書くタイプではなく、小さなメッセージカードをサークル員に配り、それらを回収して一枚の台紙に貼り付ける、という形式をとった。

これも、些細なことだが私の理想と自己肯定が関わる。

すなわち、メッセージカードタイプにすることで、一枚の色紙を回す場合よりも格段に早く記入を済ませることができる。

気配りのできる人になりたい、これも理想の一つ。そのための一工夫。

そして、その日のうちにメッセージカードを貼り付け、真ん中に描くイラストを担当する同期に、大学で色紙を渡す約束をしていた。

 

カラフルな文字列が羅列された沢山のメッセージカードを、一度色紙に配置する。

 

手が止まる。スティックのりがない。

 

今まで、具体的にはここ数ヶ月くらいで、毎日集め貯めていた自己肯定のかけらが、すっぽーーーん。

何がそんなにショックなんだよ、購買かコンビニに買いに行けよ、と冷静にツッコミを入れるもう1人の自分の横で、泣き崩れ床を殴り続ける自分、という絵が浮かぶ(これはお決まりのパターン)。

やがて泣き崩れた自分はふてくされ、呆れる自分の横で、メッセージカードを吹き飛ばし蹴り上げ、なーにが色紙を送ろう!だ、そんな文化滅びろやとラディカルな主張を喚く。

 

安心して欲しいのだが、結局は常識のある人間なので、傍目には大学の休憩スペースで色紙を広げ眺めているだけ。

スティックのりの不在が発覚してから、荒れ狂う2人の一連のイメージが形成、展開されたまでが3秒。

さて、メッセージカードを集め小さな袋に入れ、色紙をしまって椅子から立った。買いに行くぞ。

 

その時、はたと気付く。

床の上を転がる白い筒。

 

見紛うことはない、スティックのりだった。

 

それは、なんどもなんども休憩スペースの床で蹴られ転がった痕跡が見られる、薄汚い筒、ではなかった。

比較的新しい落とし物だと推測できるような、綺麗なスティックのりだった。

 

おそらく、小汚いスティックのりであれば使うのを躊躇い、すぐに買いに行っただろう。

しかしそれは新しかったのだ。

スティックのりが光り輝くところを見たことはあるか。私はその時初めて見た。おそらく世の大部分の人間はそんな場面に出くわさずに死んで行くのだろう。

 

丁重に床から広い、蓋をあける。

 

そして、丸く輝く白いのりの表面には、

 

 

 

 

細かな

 

 

 

 

青のり

 

 

がひっつき、

 

文字を作っていた。

 

 

 

 

それは、はっきりと

 

「呪」

と、読めるのだった。

 

 

 

 

なるほど、そういうことだったのか。

 

私は、サークルで苦手だった人間のメッセージカードを、苦手だった順にそのスティックのりで色紙に貼り付けた。

 

残りのカードは、購買で買ったスティックのりで丁寧に貼り付けた。

 

カードが全て貼り付けられた色紙は、神経質な人が貼ったのだろうなとわかるような、過剰なまでに完璧にカードが整列したものになった。

 

イラスト係の同期がやってきたので、のりが無くてさー、さっき買ってきちゃったよ、チョコも買ったから食べる?とその子に言った。